備州岡山城鉄砲隊は、藤岡流古式砲術を継承している火縄銃の砲術隊で、もとは日本甲冑武具研究保存会 岡山県支部の中にありましたが、昭和58年岡山城鉄砲隊として独立しました。その後、備州岡山城鉄砲隊と名称を変更、県内外各地の行事に出掛け古式砲術の演武を披露し、古式銃の展示・講演活動も行っています。
特徴としては、馬上筒・軍用筒・10匁士筒・20匁中筒・さらに30匁〜100匁までの大筒による変化にとんだ演武を得意とし、流派の伝承を通じて古式銃の研究と保存に努め、年間16〜18回活動しています。
鉄砲伝来の地、種子島での火縄銃サミットへの参加や、平成22年11月には鉄砲を日本に伝えたポルトガルでの修好150年記念祭にも参加しました。
現在、50名の隊員が在籍し、古式砲術の初段から最高段位十段までの保持者がその中に31名います。
備州岡山城鉄砲隊について
岡山池田家と徳川家との繋がりは深く、池田輝政が家康の第二女 富子を正室に迎え二代将軍秀忠の孫 勝子(勝子は千姫の子)は池田光政に嫁いでおり、徳川家と池田家は婚姻関係にあります。
徳川家康が崩御し、御霊を久能山東照宮に安置した後、日光東照宮にまつられましたが、この時 岡山の玉井宮にも分霊奉納されました。
この御霊を江戸から岡山まで岡山城鉄砲隊が護衛した史実が残っています。
当時の鉄砲隊は、一番隊から九番隊まであり、一隊は三個小隊約百名で編成されており、後方支援を含め全体で約千人の鉄砲隊員が居たことになります。
藤岡流砲術 由来
藤岡流砲術は、慶長年間、近江甲賀郡の住人、元祖 藤岡六左衛門長悦が創始したものである。
初代、藤岡六左衛門長悦は、稲富流の小筒を得意とし、それを池田輝政に見込まれて、慶長14年に播磨100万石宰相と呼ばれた姫路の池田輝政に250石で召し抱えられた。
長悦は稲富流砲術の小筒に、種子島鉄砲大筒の抱え撃ちを砲技に加えた。
輝政の死後、長悦は池田忠継に仕え、慶長19年の大阪の陣では、輝政から拝領の30匁玉の大筒を放って功績をあげ350石取りの侍になった。慶長期、因幡の池田家に仕え、備前へ国替え後も引き続き池田家に仕えた。
以来、岡山藩の砲術として藤岡流は、面々と受け継がれた。
特に藤岡流砲術は藩主に近接した流派である。
備州岡山城鉄砲隊の砲術
備州岡山城鉄砲隊プロフィール